発達障害について論じるときに、よくテーマになるのが「親が子供の障害にどう向き合うか」という点です。
私は育ててくれた両親に感謝している一方で、許せない気持ちも強くあります。
その根底にあるのが、10代から「普通にできない」ことに悩み続けた私を1mmたりとも障害者扱いしなかったことでした。
小さい頃の私と母
前提として、私が小さい頃にはまだ「発達障害」など全く知られていませんでした。
当然、親の立場でもできる事は少なかったのだろうと思います。
しかし現実問題、母は私が日常生活でどれだけ苦悩していても、「そんな大げさな」と一切取り合ってくれませんでした。
たとえば私は小学生の頃、テストの問題は難なく解けていた一方で、国語の音読で文章を目で追うスピードと実際に口から声を発するタイミングがまったく一致しなかったため、音読が非常に苦手でした。
また、いくら意識しても早口で喋ってしまうため、いつも人から「今何て言ったの?」と聞き返されており、30代の今なお吃音の傾向があります。
そして、対人関係構築の面でも大きな苦痛がありました。
微妙な距離感の同級生と一緒にいるのがとにかく無理なので、小学生の頃には集団登校の班から脱走して1人で登下校していましたし、中高一貫の学校に進学して電車通学になってからも、同級生の輪から「じゃあまた」と離れ、1人だけ別の車両に乗っていました。
幼少期から10代の私にとって、「登下校時に同級生と他愛のない雑談をする」というのは非常に難易度が高く、メンタルの消耗が大きすぎたのです。
しかし、私がいくら辛さを訴えても、母は私のことを「何の問題もない普通の子」として扱い続けました。
精神科に行きたい!
そんな母に対し、極めて強い憤りを覚えたのが中学生の時の出来事です。
当時の私は発達障害など知りませんでしたが、自分が周囲と馴染めていないことは自覚していました。
もちろんそこには、思春期特有の「自分は他者と迎合しない孤高の存在なのだ!」みたいな自意識(要は中二病)も含まれていたでしょう。
しかし、それを差し引いても自分が本気で悩んでいることが家族にも同級生にも教師にも理解してもらえないというのは明確な悩みであり、今思えば当時の時点で鬱の症状も出始めていました。
そんな折、私は学校の図書室で、児童心理学に関する書籍を偶然目にします。
私はその本を読んで、子供であっても必要があれば精神科への通院が必要になるケースが存在するということを知りました。
「精神科!これだ!」と私は思いました。
精神科で診てもらえば、自分が何かの病気かもしれないと判る可能性がある。
もし何の病気もなかったとしても、「自分の抱える悩みなど大したことではないのだ」と折り合いがつけられる。
専門家の話が聞きたい。自分がおかしいのかそうじゃないのか、お医者さんに診てもらおう!
15歳の私は勇気を出して、母に頼みました。
「自分は何か心の病気かもしれない。何もないかもしれないけど一度でいいから病院で診てもらいたい。精神科というところに連れて行ってほしい。」
結果、初診は10年遅れた
しかし、私の「精神科に行きたい」に対し、母は怒りをあらわにして返答してきました。
今でもはっきり覚えています。
「世の中には本当に心の病気で辛い人がいるの!精神科だなんて冗談でも二度と言わないで!」
この時の母の心情は、まあ理解できなくもありません。
今と比べて精神科・心療内科への偏見はかなり強かったでしょうし、ハードルも高かったと思います。
そもそも田舎だったので、「児童精神科」のような診療科が近くには無かった可能性も高いです。
しかし、「自分の悩みの解決策が生まれて初めて分かるかもしれない!」とテンション爆上げになっていた私にとって、この母の言葉は「自分の味方だと思っていた人から突き放された」以外の何物でもありませんでした。
そして、自身の特異性や鬱の傾向を自覚していたにもかかわらず「精神科や心療内科で診てもらう」という選択肢を全否定された私は、「いくら心がしんどくても精神科なんかに行ってはダメなんだ」と考えるようになりました。
その後、私が疑いようのない鬱を発症し、勤務先の上司に言われて初めて心療内科にかかったのは25歳のときのこと。
結果として、私がメンタルおよび発達面での不具合を自覚してから、初めて病院に行くまでに10年もかかってしまいました。
今思えば気付く残酷さ
私が親に対する決定的な不信感を抱いたのが、おそらくこの時だったのだと思います。
しかしこの件に限らず、今思えば母は、無自覚に私のメンタルを削っていました。
例えば、母はボランティア活動に熱心に取り組んでおり、私にもボランティアへの参加をよく勧めてきました。
私自身、そういった活動には関心を持って参加してきましたが、その中で個人的に辛い思いをしたのが知的障害児向けワークショップでのスタッフのボランティアでした。
先に書いた通り、私は他者とのコミュニケーションがかなり苦手でしたが、それについて何ら配慮を受けたことはありません。
ところが、そのようなワークショップに参加している軽度の知的障害を持つ子の方が私よりも普通に喋れたりするわけです。
差別と言われようが構いません。この日帰宅した私は「俺は障害児以下か!?」と号泣しました。
母への不信感が決定的になった「MSPA」
そして、私の母に対する不信感が決定的になったのが、成人してから受けた発達障害検査での「MSPA事前アンケート」です。
これは発達障害の検査のひとつで、検査を受ける本人ではなく、小さい頃の様子を知っている人が記入するものですが、それに母が「幼少期から発達には何の問題もなかった」という回答をしたのを見て、私は改めて「ああ、この人は私のことを何も見ていなかったのだ」と実感しました。
あるいは、あの母のことだから私に発達障害の診断がつかないようにわざと嘘の回答を記入したのではないか?という疑念すら湧いてきます。
子供に「自分は発達障害かもしれない」と言われたら
以前ほどではないとはいえ、子供が発達障害だと言われたときに「そんなはずがない!」というような反応をしたり、本人の特性を無視して普通学級に通わせようとする保護者はいます。
私よりも大変な経験をされてきた当事者の方や、いわゆる毒親のせいで大変な目に遭ってきた方と比べれば、私の経験など大したものではないという自覚は持っています。
しかし、それはそれとして、私はこのような親の態度を虐待に類するものだと考えています。
自分のメンタル面の問題や障害がある可能性を親に伝えるのは勇気がいることです。
そのハードルの高さは、これだけ発達障害が一般的になった今でもあまり変わらないのではないかと思います。
だからこそ、お子さんが勇気を出して「自分は発達障害だと思う」と言ってくれたなら、それを受け止めて適切な支援について考えてあげてほしいと切に願います。