本日令和8年8月13日、国旗の損壊等の処罰に関する法律(日本国旗損壊罪法)が施行となりました。
この歴史的悪法について、保守を自称しながら「何が問題なの?」と抜かす連中がインターネット上に溢れています。
皇国臣民の誇りを欠片ほども持たぬ不逞の輩に、我々が何をなすべきか説明します。
ネトウヨの誇りをどこに捨ててきたのか
インターネット右翼の略称「ネトウヨ」といえば侮蔑表現の代表格ですが、ここで私は誇り高きネトウヨとして論を張ります。
戦争論の頃から、いかにもそれらしいロジックを構築してみせることがネトウヨの強みだったはずです(その中身が正しいかは置いといて)。
しかし、昨今の「普通の日本人」「保守思想」と自称して小銭稼ぎに精を出す連中には、見せかけの論理性すら欠如しています。
SNSはエコーチェンバー化を強め、論客扱いされていた人物も老いてエビデンス思考を喪失、やしきたかじん亡き後の「そこまで言って委員会」は論戦どころか陰謀論の巣窟。
もはや現代のネット保守層は、自分の頭で考える機会すら奪われ、国家権力にとって極めて扱いやすい駒といえます。
それでよいのでしょうか。
歴史を重視し、国家の行く末を憂うというのは、むやみやたらに外国人を排斥することではありません。
かつて森喜朗元首相が「天皇を中心とした神の国」と表現した国家観に同調するのであればこそ、天皇陛下に恥じぬよう、国家の礎となった英霊の皆様に胸を張って顔向けできるよう、真に日本をより良い国にしていく方法を考え続けることが我々愛国者の使命であるはずです。
南北朝時代の再来に備えて
ではここで、具体例がないと危機感を持てない人のために、簡単な思考実験を行いましょう。
我々が現在住んでいる日本国。
天皇陛下がこの国と袂を分かち、天皇家による亡命政府と、明治政府以来の国家機構・法秩序の系譜を継ぐ従来の政府(※時の政権与党は自由民主党とは限らない)が国家として分裂したとします。
以下、天皇陛下側を日本国「甲」、従来政府側を日本国「乙」とします。
ここでは仮に、日本国「甲」は国旗として十六葉八重表菊紋を掲げ、日の丸は「乙」が継続して用いるものとしましょう。
いわば南北朝時代の再来ともいうべき事態に直面したとき、あなたはどちらを支持しますか?
我々にとって何が国家を体現するか
ここで「真の保守であるならば」というような安っぽい感情論にはしません。
誰がどのような立場を取ろうとも構いません。
日本国が、正統性を有する「甲」と、合法性を有する「乙」に分離した状況において、保守主義者としてどちらを「我らが愛する日本国」と認識するのか?という話です。
私は、日本の歴史的・国家的正統性を最も強く体現しているのは天皇陛下であるとの考えから、「甲」支持に回ることを明言します。
日本という国の正統性は天皇という超政治的存在にあるとするなら、天皇家に比して大した歴史もない国旗や現政府が正統性の体現者でないことは言うまでもありません。
日本国「乙」は国家の管理者であったにすぎず、正当な日本国は「甲」のほうです。
とはいえ、この決して広大とは言えない日本国土において、即座に広範な地域を「甲」の支配領域とすることは現実的ではありません。
さしあたっては皇居のみが「甲」の実効支配下に入り、一般市民は「甲」支持者であれど「乙」の支配領域に継続して居住することとなるでしょう。
日本国旗損壊罪法は真正保守派の首を絞める
ここで日本国旗損壊罪法が大きな足枷となります。
やむなく「乙」の支配領域にて弾圧される保守主義者が、「日本国『甲』こそが正当な日本国である!天皇陛下万歳!」と日の丸を燃やすことは、紛う方なき正当な抗議活動でしょう。
しかし、日本国旗損壊罪法が施行されている以上、「乙」の実効支配下で「甲」の支持者が日の丸を燃やせば刑罰の対象となることは容易に想像できます。
この状況において日本国旗損壊罪法は、保守ならざる者が保守を弾圧するための武器となるのです。
考えてください。
我々皇国臣民は誰に忠誠を誓っているのか?
日の丸が日本国を象徴する旗だと認めるにせよ、あくまで象徴であって国家そのものではありません。
ましてや、我々日本人よりも上位に君臨する神聖不可侵の存在であろうはずもありません。
にもかかわらず我々が国家から「日の丸を傷つけてはならない」と命じられたというのは、国家が日の丸を我々より上位に置いたということです。
ここで、絶対に忘れてはならない重要な点があります。
昭和天皇がいわゆる「人間宣言」により、神話的な神格性から自らを切り離し、我々民草の元まで降りてきてくださったという歴史的事実です。
これを「国家が一枚の旗を『天皇陛下を含む私たち』よりも上位に位置付けた」と受け取るのはこじつけが過ぎるとしても、天皇陛下と臣民との間にまで日の丸を割り込ませ、あまつさえ人間宣言に疑義を生じさせる作用を起こしたことは間違いないでしょう。
こんな不敬が許されてなるものか!
右翼なればこそ日の丸を燃やせ
天皇陛下のもとにある日本国「甲」への忠誠を示すためであろうと、日本国「乙」の象徴に過ぎない日の丸を燃やすことが犯罪になる。
このような「私たちの国旗を大切にしましょう」という綺麗事にマスキングされた窮屈な規制など、保守思想と呼ぶに値するものではありません。
保守とは、国家の歴史や伝統を守り、それによってその先にある未来までも守ることだと私は考えます。
時代に即した変化は避けられないものです。政権も法律も変わります。
しかし、今回のように国旗の扱いさえ変わり得るのであればこそ、我々は時の政府と国家そのものを明確に区別すべきです。
日の丸を燃やした者を罰することが、日本そのものを守ることだとは到底思えません。
日本という国に本当に誇りを持つのであれば、日本という国そのものを批判する自由まで含めて守るべきです。
国旗を燃やす者がいることに耐えられない国家は、旗を守っているのではない。
国旗という「象徴」への侮辱を、国家そのものへの攻撃と取り違えているのです。
天皇を含む日本の歴史的正統性を守るためにも、国家の象徴である国旗を国家そのものと同一視することは極めて危険です。
私は、誇り高きネトウヨとして、改めて国旗損壊罪に反対します。
日の丸よりも、日本という国のほうが大切だからです。
ネタばらし
さて、上の画像を見て「こいつは日の丸を燃やしている!」と思った人はマジモンのアホであることを自覚してください。
日本国旗「日の丸」はその比率が明確に定義されており、国旗国歌法において、日章の直径は縦の長さの5分の3、位置は旗の中心と定められています。
もちろん安価な市販品においては多少の誤差が存在しますが、多くはこの定義に近いデザインを採用しています。
一定のブレを前提としてもなお、「比率からして絶対に赤いはずの箇所が赤くない」ことは見れば分かるのです。

その程度のことも暗記してない奴が「日の丸を大切にするのは当たり前のことだ~!」とか騒いでんの?
馬っっっ鹿じゃねえの???
【余談】似非保守が「教育勅語」だと思っているものについて
昨今の自認保守主義者がネトウヨと呼ぶにすら値しない有象無象だと分かったところで、よく言及される教育勅語の復権についても触れておきます。
私は個人的に、教育勅語を現代の教育にも復活させるべきとは全く思っていません。
そもそも内容云々の前に、よくネット上で「正しいことしか書いてない!これがダメだと言う奴は反日!」と貼られているのは、教育勅語の全体像を意図的に薄めた「現代版教育勅語もどき」にすぎないのです。
「勅」って分かってるか?「みことのり」やぞ?勝手な改変を入れること自体が不敬やぞ?
中でも質の悪い曲解においてよく引用されるのが「教育勅語の十二の徳目」です。
これは明治神宮のウェブサイトに教育勅語の口語文訳とともに掲載されていますが、この徳目は、現代社会で受け入れられやすい項目を抽出したことで、教育勅語の国体観を含む本質を毀損しています。
特に重要な「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」については、おそれながら現代語に愚訳させていただくなら「ひとたび緊急事態が起きたならば、大義のために勇気を奮い、公のために身を捧げることによって、永遠に続く皇室の運命の一助となりなさい」あたりでしょう。
言われずとも当然のことです。
それを何が「もし国家の平和と国民の安全が危機に陥るような非常事態に直面したら、愛する祖国や同胞を守るために、それぞれの立場で『勇気を出してがんばります』と覚悟を決め、力を尽くしましょう。」じゃい!
「公のために身を捧げよ」と読める明治天皇のお言葉を軽々しくボランティア程度の話に漂白するなボケ!不敬罪で殺すぞ!!!
そもそも本来であれば、明治天皇のお言葉を勝手に現代日本語(すなわち別の言葉)に書き換えて趣旨を取りこぼすこと自体が不敬極まりないことです。
当時、子供たちに教育勅語を読み聞かせる際は、校長先生が一言一句間違えないよう音読したといいます。
天皇陛下のお言葉を少しでも違えたら不敬である、という考えに基づくものですが、その程度の前提すら見失っているのが現代の自認保守連中というわけです。
これぐらいそのまま読まんかい!
教育勅語について「普遍的な美徳の部分だけを継承すべき」と主張する連中こそが、誰よりも明治天皇のお言葉を軽んじているのです。
「現代社会にそぐわないのだから教育現場に導入すべきではない」という考えの方が、むしろ教育勅語をそのままの形で尊重しているというのは皮肉な話です。
以上の通り、「教育勅語を現代教育に復活させるべきではない」という私の考えは、教育勅語の軽視では一切ありません。
むしろ、明治天皇が臣民に示された勅語を現代人に都合のよい徳目集へと加工し、親孝行だの夫婦の和だのを抜き出して「今でも通用する普遍的な道徳」かのように再包装することこそが反日右翼的な侮蔑行為であり、極めて不敬であると考えます。
そもそも、現代人に都合よく編集する・しない以前の問題として、文言を違えた時点でそれは「教育“勅”語」ではありません。
教育勅語は、教育勅語として、全文を正面から読むのが唯一誠実な姿勢であり、そうであってこそ日本人としての教養たり得ます。
保守を名乗る以上、過去を自分たちに都合よく改変することは厳に慎まなければならないのです。


